ある監督が常勝将軍になれた訳

ある監督が常勝将軍になれた訳

 

今、読んでいる本です。

 

https://www.amazon.co.jp/%E9%A3%9F%E3%81%88%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%89%E9%A3%9F%E3%81%86%E3%81%AA-%E9%96%A2%E5%A4%A7%E5%BE%B9/dp/4341172360/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E9%96%A2+%E5%A4%A7%E5%BE%B9&qid=1559521207&s=books&sr=1-1-spell

 

 

 

永らく絶版となっていた、まさに幻の名著でした。あまりにも貴重過ぎて、つい先日、アマゾンの中古で「62万円」で売られていました(笑)。誰が買うんだ!? というのと、そんな貴重な本を手放そうという人もいるんだな、という思いでいました。

 

今回の復刊で、ようやく普通の値段で手に入れることができるようになりました。この名作の復活に尽力していただいた「読書のすすめ」さんに感謝です、ありがたいです。

 

内容に関しては、私がどうこう言うまでもなく素晴らしい。生きていく上での真理が詰まった一冊で、この先もずっと、何度も読み返しては、前進するエネルギーに変えていくことになるのだと思います。

 

 

 

 

今日は「~のために・・・をやる、なんてウソ」という話を。

 

例えば

 

・受験に有利になるから検定を取得する

・内申点のために生徒会に立候補する

・志望校に合格するために塾で勉強する

・レギュラーになるために練習を頑張る

 

って考え方があります。実際、教室で見ていても子どもたちは「何かを手に入れるための手段として、何かを頑張る」わけです。

 

子どもたちや保護者の皆さんからすれば、当然そういう考え方にもなるだろし、それはそれでOKだと私も思っています。私だって「子どもたちに好成績を修めてもらって、通塾を続けてほしいから」指導に力が入るっていうのもありますから(笑)。お互い、それが正直な気持ちだと思うんです。

 

でも、それ「だけ」で終わってほしくない! それだけでは、あまり意味がない。常々そう思っています。

 

 

 

検定を例にとれば、「受験に有利になるから」という理由だけで検定を取得するのではなく、もっと本質的なところ、例えば

 

・高い目標をクリアするという成功体験を得る

・純粋に自分の力(漢検なら漢字の力、英検なら英語力)を把握する

 

という、本来のあり方も同時に大切にしてほしい、そう思っています。

 

 

 

スパークでの指導も同じで、単純に目先の点数や学年順位、受験のためというのと同時に

 

・挑戦して乗り越える小さな成功体験

・これから生きていく上での大切な何か

 

みたいな「本質的なこと」を大切にしてほしいなと考えて、教室運営をしているわけです。

 

 

 

 

それに関連して、本書にあった話を御紹介します。まさに!という感じです。

 

かいつまんで言うと・・・

 

あるプロ野球の監督さんが、某伝統球団の采配を預かったものの、その年は散々な結果に終わり、批判を受けた。彼は一時、姿を消し、伊深の正眼寺へ一人で座りに行き、禅の修行に入った。

 

そこで得るものがあったらしく、翌年からは周囲に何を言われようとも自分の采配を貫き、それ以降、彼は常勝将軍の名をほしいままにした。

 

人々は、その秘密は「禅」にあると見たらしく、「禅を学べば成功できる」とちょっとした禅ブームが巻き起こった。でも、それはちょっと違うのでは? もし、その監督が優勝したさの一心から禅に頼ったのであれば、それはニセモノの禅であろう

 

・・・と、そんな話でした。

 

私もそう感じました。優勝したさに禅を学びに行ったのではないな、と。

 

この本は1978年に出されたものですから、どの監督さんのことを言っているのかは見当がつきますね。原監督とかじゃないです(笑)。きっと、「優勝するため」とかではなく、生きていく上でのもっと本質的なことを掴みたかったのだと思うのです。ブレない自分を築きたかったのだと思うのです。

 

 

 

受験を突破するために塾へ通う。それはそれで大いに結構ですし、私もその目標達成のために出来ることはすべてやるのですが、それだけではないのです。

 

自分で頭を使って、自分で勉強を進めていける習慣。

 

生きていく上での太い芯のようなものの獲得。

 

人生で苦しい局面に出会った時に踏ん張る力となるような成功体験。

 

スパーク個別指導学院が、そういったことを獲得していける場となるよう、今日もまた一日、ベストを尽くしていきます。

 

 

 

 

これが、禅をすることによって得られる境地であり、結果的にいえば、今日を生き、明日を生きる力を湧き出させるであろう。「大禅定」の力であり、この大禅定の力があるかぎり、何物をもおそれなくなる。いま話題の野球監督は、伊深で坐ったことによって、この大禅定の力を得たのであろうし、それによって、いままでの迷いもふっきれたに違いない。

 

もっといえば、野球というめまぐるしく変転する局面で、彼は常に「坐る」こころを忘れなかったのが勝利にみちびいたのかもしれないし、そういう動中静の定力が、采配を振る彼の決断をあやまらせなかったのであろう。

 

それは、勝負を超えた世界である。もちろん、野球の監督であるかぎり、つねに勝ちたいというのは本心であろうし、勝つためにこそ全精力を傾けている。けれども、ただ勝ちたい一心では、勝ちたいという気持ちにこりかたまっていたのでは、それこそ勝ち意識がわざわいすることだってあり得る。剣でいえば、生死を賭けた世界にも等しい場面である。そういう場面こそ、自分を凝視するもう一つの目が必要なのである。それを開かせるのが禅である。

 

そうして彼は勝った。結果的に勝った。しかし、敗けても本望だったであろう。それは、敗ければ口惜しいに違いない。けれども、彼は彼なりに、全知全能を傾けたのだから、敗けても本望という澄明さがなければ、勝負はできない。

 

いや、勝負だけでなく、人生全般、そうではないか。何物をもおそれないという心境がそれである。

 

自分の敗北すらおそれなくなってこその大禅定である。

 

(関 大徹著 「食えなんだら食うな」より抜粋)