OFFです。
スパークの子どもたちにぜひ読んでほしい本がいくつもあり、果たしてどこまで紹介し切れるのか(多分、し切れない)わからないのですが
そのうちの一冊が
重松 清さんの「きよしこ」
先日のブログにも書いたように
幼いころから吃音(きつおん)
つまり、どもりがある少年の
成長過程を描いた作品。
幼少期から大学受験期までの
一人の少年のリアルな日常が描かれます。
少年の吃音は最後まで治るわけでもなく
劇的なドラマが起きるわけでもありません。
それでも、というか
だからこそ、物語に引き込まれます。
その点では
少し前に御紹介した
「しずかな日々」と共通する何かを感じます。
「きよしこ」を読んで
私は、自分の中学時代の
K先生のことを思い出しました。
その先生は、吃音のある男の先生でした。
指導教科は国語で、担任クラスも持っていました。
私の担任ではありませんでしたが
中1の時の国語の担当がその K先生でした。
K先生との最初の出会いのシーンは
未だに私の記憶にはっきりと残っています。
それは
入学して間もない学年集会か何かで
体育館に集まった中1生全員の前で
先生たちが一人ずつ自己紹介する場面でした。
K先生の番がやってきて
まず、名前を名乗ったのですが
その時、ちょっと不自然なぐらいに
とてもゆっくりと
「私は
か・〇・た
と・〇・〇・こ
といいます」
御自分の名前の一文字一文字を
区切るようにして発声したのです。
その時はわからなかったのですが
生徒たちとの大事な初対面の場で
吃音により、言葉が詰まるのを防ぐため
ゆっくりと慎重な発声をされたのでは?
と、のちに感じることになります。
その後、国語の授業中
K先生が言葉につっかえる場面や
なかなか言葉が出てこない場面が
毎時間のように訪れました。
先生が次に言いたい単語が私にはわかるのですが、その言葉が先生の口からなかなか出てこないことが頻繁にありました。
「こ、こ、こ、こ、こ、こ、こ、こ、こ、こういう文章では~」
子どもながら、何だかすごくいたたまれないような、その場に居たくないような、それまで味わったことのない気持ちになったのを今でもはっきり覚えています。
私の中に、偏見や差別の心があったからだと思います。
「ガンバレ、もうちょっとだ」
とか
「言いたいことわかるんで、もう無理しないで」
なんて、今から思えばずいぶん無礼で、人として最低なことを私は思っていたものです。
でも、K先生は
そんな自分自身を決して恥じることもなければ、落ち込むこともなく
(少なくとも私から見る限りは、ですが)
常に堂々と私たちと接していました。
時間が経つにつれて
私は子どもながらに
「この先生の生き方、カッコいいな・・・」
と思うようになっていき
結果的に、こうして未だにはっきりとフルネームで名前も覚えているほど、心に残る先生として生き続けているわけです。
私が
人生で一番大事な哲学の一つと思っている
「堂々と生きる」
ということを、K先生は全身で私たちに教えてくれたのだと思います。
もちろん、それは
年齢を重ねた今だからこそ感じること。
中学生の頃の自分にはわかりませんでした。
もしも、今の私が
あの時の K先生と向かい合うことがあったとしたら、私はどんな反応をするのだろうって想像してみるのですが・・・
やっぱり、そうなってみないことにはわかりません。
ただ、少なくとも中学生の自分よりは
「言葉が出てこない目の前の K先生を受けとめて、ひたすら待つ」
ということを、ちょっとぐらいは出来るんじゃないかな・・・と信じたいです。
そうじゃないと、中学時代から成長していないことになってしまうので(笑)。
「きよしこ」の感想ではなくなってしまいましたが、つまり、そういう作品です。
奇しくも、主人公の少年もまた
教師を志すようになり、物語はそこで終わります。
少年は、結果的には教師になれなかったのですが
作家としての道を歩むことになります。
おそらく、重松 清さん御自身のことなのだと思います。
確証はありませんが。
言いたいことや自分の本当の気持ちを言おうとしても、その度に言葉が出てこない自分。
あるいは、言おうとした言葉が
苦手な「カ行」や「タ行」や濁音で始まる単語で、とっさに別の語に置き換えたりする自分。
そんな自分を抱えたまま、それでも少年は、ただただ生き抜いていきます。
その生き様や苦しみや喜びを
ぜひ、多くの子どもたちに(大人にも!)
味わってほしいと思います。