カーネギーの「人生論」という本が好きで、よく読み返します。前々職時代に買った本なので、もう20年以上になりますね。ボロボロになりつつあります。
いくつも好きな話があって、その中の一つがこれ。昔のブログでも取り上げた話です。いつのブログかは思い出せません、ごめんなさい!
大事な話は何回でも書きます。
長いので途中カットしながら紹介させてもらいますね。
(前略)
以前はしょっちゅう悩んだものだった。ところが、一九三四年のある春の日にウェブ・シティの通りを歩いていて、ある光景を目撃したおかげで私の悩みは一掃されてしまった。それはわずか十秒間の出来事だったが、その十秒間に自分の生き方について過去の十年間に学んだものよりも多くのことを学んだのだ。
(中略)
私の足どりは、いかにも打ちひしがれた様子であった。まさに精も根も尽き果てていた。そのとき不意に、通りの向こうから、両足のない男がやってくるのが目に入った。彼はローラー・スケートの車輪を取りつけた小さな木の台に座っていた。
(中略)
彼が小さな木の台をある角度に傾けた瞬間に二人の視線が合った。彼はニッコリ笑いながら、私に挨拶した。
「お早うございます。今朝はよく晴れましたねえ」
彼の声には生気がみなぎっていた。私はその男の姿を見守っているうちに、自分がどれほど恵まれているかを悟った。私には二本の足がある。歩くこともできる。自分を甘やかしていることが恥ずかしかった。この男は両足がなくても幸せそうに、快活に、自信ありげにしていられるというのに、両足のある私にできないはずがないと、自分に言い聞かせた。いつの間にか勇気が湧いてきた。
(中略)
私は今でも次の言葉を浴室の壁にはりつけている。そして、毎朝ひげを剃るたびに、それを読むことにしている
靴がないとしょげていた
両足もがれたその人に
通りで出会うその前は
(カーネギー著 「人生論」より抜粋)
こういう話を聞いて、「ホント、その通りだな」と思う人もいるし、「そんなこと言われても、悩みは人それぞれなんだから、恵まれてる・恵まれてないとか関係ないんだよ」と反発する人もいるでしょう。
いずれにせよ、一つ言えるのは「どんな状況にあろうとも、今この瞬間にでも、やれることはある」ということ。
それこそ、太陽の日差しをちょっと浴びるだけでもエネルギーをもらえて気分が高揚します。「行動する」っていうと、何か大きなことを成し遂げようと考えがちですけど、大きな事ばかりでなく小さなことも私は大事にしています。それこそ、机上を整理整頓するとか、そんなことでも現実を1ミリぐらいは動かしたことになる。
人間は感情の生き物なので、ネガティヴな感情が湧いてくれば、それに支配されて行動をやめてしまいます。私も日々そんなことの連続なんですけど、その度に「今、この瞬間に出来ることは何だろう?」と考えて、1%でもいいからアクションを起こすことにしています。
その連続で、いつの間にか時間の経過とともに、ちょっとずつ状況は変化してきます。
子どもたちの勉強や受験というのもまさにこれで、いかに自分が恵まれていて、今この瞬間にでもやれることがたくさんあるか。まずはそこに気付くことから だと思うんです。
現状の成績はどうであれ、少なくとも塾に来て勉強できているという時点で、塾生たちはみんな「超・恵まれた子たち」なわけです。
塾というのは、時に自分の実力以上の力を発揮させてくれる「場」ですから。
そして、そういう有利な場に居ることを許してくれるお父さん・お母さんにも恵まれているということ。
応援してくれる家族に恵まれ、快適に勉強できる環境にも恵まれ、通って勉強できる身体にも恵まれている。
そしたら、あとは行動するだけです。
結果に一喜一憂してしまうのは当然ですけど、それ以前に「やれることを本当にやってきたのか?」を見直してみましょう。
なかなか成績が上がらない子もいますが、どんな状況下においても「今、出来ることをやる」「やるべきことをやる」以外に打開策はありません。
子どもたちの成績というのはタイムラグがあるので、すぐに結果が出る子もいれば、長くかかる子もいます。
一番いけないのが「あきらめて動きを止めてしまうこと」
大人も子どもも「いかに自分が恵まれた立場にいるか」を認識して「今、出来ることをやり続ける」
今日も精一杯、動く一日にしたいと思います。
今日の一曲。
ジョージ・ハリスン作のビートルズナンバーの最高傑作「Something」
定期的に聴きたくなります。アルバム「Abbey Road」は、きっと一生聴き続けることになるでしょう。
こんな名曲に巡り合えて、それを聴きたい時に聴ける世の中に生きていられて、ホント自分は恵まれてる人生だよなあ・・・と、こんな時にも実感したりします。