枯山水

枯山水

 

これまで手に入れた本の中で、とりわけ大切で、人生のバイブルのように何度となく引っ張り出しては読み直す本というのが、私の中で数冊あります。

 

その中の一冊が、ちょうど一年前ぐらいに買った「葉っぱは見えるが根っこは見えない」

 

当時、このブログでも感じたことを書いておきました。

 

葉っぱは見えるが根っこは見えない

 

 

 

今、また読み直していて、今というタイミングで響いた一節を紹介してみますね。「水」をテーマにして書かれた部分です。

 

清く美しい流れに寄せる日本人の想いはなまなかではない。それを象徴的に表しているのが、枯山水だ。庭の砂に流線を描く手法だが、なんと私たちの祖先は、「水を感じたいから水を抜く」というとんでもないことを思いついてしまった。ふつう、水を感じさせたいのであれば、そこに水をひく。しかし、あえて水を使わずに水を感じさせた。

 

人は本心からそれを欲し、しかしそれが満たされない時、それを求める欲求が極限まで膨れあがる。反対に、足りていればそれを求める心は低下する。溺れて空気を吸えなくなった時、人はふだん意識しない空気のありがたさがわかる。人や物に対してもそうだ。当たり前のように自分の周りにいる(ある)と、人はなかなかその価値に気づかないものだ。しかし、身の周りからその存在が消えてなくなった時、人は失ったものの大きさを初めて知ることになる。

 

枯山水はそういうことを教えたいのではないだろうか。今、生きていることも、毎日なに不自由なく食事をすることができるのも、仲のいい人が元気なのも、社会が安定しているのも、じつは奇跡の連続なのだよ、と。

 

(高久 多美男著 「葉っぱは見えるが根っこは見えない」より抜粋)

 

 

 

 

 

子どもたちは、当たり前のように塾にやってくるし、私も当たり前のように毎日ここにいて彼らを指導しているわけですが

 

お互いの価値に心底気付けているのかと言えば、どうなのかな? と・・・。

 

 

こうして出会えていて、彼らが勉強できたり、私が仕事できたりしているのは、まさに奇跡的なことなんですね。

 

当たり前じゃないことなんだと、思い出させてもらった今のうちに再度噛みしめて、また明日から前進していきたいと思います。

 

 

それにしても、本の持つ力は偉大ですね。こんな大事なことを思い出させてくれる存在を、生身の人間たちの中に見つけるのは、かえって至難の業だと思います。

 

埼玉県坂戸市にっさい花みず木4丁目8-1 SONNE BLDⅥ 2階