昨日は久々に前職時代にお世話になったお母様とLINEで連絡を取らせていただきました。昨年の夏にブログにも書いた、秋田の水族館で活躍中の教え子のお母様なんですけど
いまだにこうして繋がっているというのが、私からしたら奇跡でしかないわけで、ホントありがたいなあ、と。あの人どうしてるかな・・・と思える人が家族以外でもいるというのは、実はとても幸せなことなんじゃないかと思います。
あー、また秋田へ行きたいな!
さて、ここから今日の本題。
前回のブログで、「テキストとテストは別物。テキストが解けてわかったつもりになってしまうのが一番怖い」というようなことを書きました。
これは子どもたちの勉強に限らず何でもそうで、人生において一番危険なのが
「わかった」
って感覚なんだと思うのです。
「わかったと思った瞬間から、転落が始まる」ぐらいに考えてもいい。
仕事でもそうで、たまたま上手くいって「わかった」「これで大丈夫」なんて思った瞬間、地獄行き。私もそんな体験をしょっちゅうしてきています。未だにそういうことの連続なので「ホント、学習能力ないな~」と、うんざりしたり・・・
教室運営一つ取っても、未だにアップダウンの連続なのです。わかったと思った瞬間から崩れていきます。
そもそも「わかった」と思ったら、もうそれ以上の成長はないわけです。新たに学ぼうとか、もっと良くなるように工夫しようとか、何か新しいことに挑戦してみようとか、そんな発想が出てこなくなります。
私の好きな音楽や本なんかにも同じことが言えて、最初に聴いたり読んだりした時には、「なるほどね、こんな感じね」と分かった気になって、それっきりになっていたアルバムや本が、ちょっと時間を置いて改めて味わってみると、ビックリするほど衝撃を受けたり、感動したりする。
「全然わかってなかったじゃないか!」 そんな体験が実はしょっちゅうあります。
一度触れておいたことで、脳がその音楽や文章を受け取りやすくなっている、というのも理由としてあるとは思いますが、それ以上に
一度「わかった」と感じてしまったことで、それ以上に深く知ろうとしなくなっていた
からではないかと思うのです。
だから、思いっきり極論を言うと、私たちは
「わかった」とか「出来た」「大丈夫」って感覚は、なくしたほうがいい
のだと思います。
メンタル的にもその方がいいんですよ。わかったって思ったけど、次の時に実はわかっていなかった自分に遭遇するから混乱したり、自信を無くしたりするわけですし、自分を責めることにもなる。
だったら、代わりに
「今は出来たけど、どうせたまたまだから」
「偶然出来ただけなんだから、もっとやっておかないと」
って発想を習慣づけした方がいい。
それは、一瞬「自己否定」であり、あまりよろしくないことのようにも思えるかもしれませんけど、全然そんなことはなくて
まだ上へ行ける自分を信じている
という、究極の自己肯定でもあるわけです。「自分はこんなものじゃない、まだ行ける」という根拠のない自信を持つことでもあり、それ以上に自分を信じてる状態なんてないわけですよ。
「自己否定」=「究極の自己肯定」
と、いうこと。
だから、子どもたちを指導する際にも、目の前の子が発する
「わかりました」
「大丈夫です」
という言葉を信じるのをやめました。
生徒の言葉を信じない代わりに
「この子がもっと先へ行けることを信じる」
って感じ。
そうでなかったら、塾の仕事をやっている意味はないわけで。
人っていうのは「わかりました」とか「大丈夫です」って言葉を言ったり聞いたりして安心したいわけですよ。私もそうです。
でも、安心を求めた瞬間、落下していくのであれば、安心なんて求めずに、常に試行錯誤、もがき続けるぐらいでちょうどいい。
そうなると、子どもたちを褒めるばかりでなく、時には鼻っ柱を折ることにもなるでしょう。
それも「この子はまだまだ上へ行ける」と根拠なく信じているからこそなのです。
今日の一曲。
長い時間をかけていろんな経験をしてきて、多様性というか、いろんな価値観を認められるように少しは変わってきたかな? と自分自身を見ていて感じます。まだまだなんですけどね。
音楽に関しても同じで、以前は好きなジャンルに固執していてそれ以外は受け付けなかったり、女性アーティストはあまり聴かなかったり・・・という感じだったのですが
今はありとあらゆるジャンルの音楽に良さを見出せるようになってきて、特に最近は自分の Apple Music のライブラリが、気付くと女性アーティストの素晴らしい作品ばかりで埋め尽くされていたりします。
女性ロッカーの元祖とも言える存在の一人が、クリッシー・ハインド。彼女が率いるザ・プリテンダーズ。来月出るという新作も超楽しみなのですが
今日は、1990年のアルバム「Packed!」より、私が大好きな一曲を。