食わないのか、食えないのか

食わないのか、食えないのか

 

一度読んだ本を何回も読み直すのが好きです。本を読んで一度に理解できるなんてことはなく、時間を置いて何度も読むことで、初めに気付かなかったことに気付いたり、読み落としていたこと、行間に含まれる著者のメッセージを感じ取れたりします。

 

 

逆に言うと、一度で容易に理解できてしまう本というのは、実はそれほど価値のある本とは言えないのかもしれません。とりあえず、目先の利益を出すのには役立つのかもしれませんが、人生を長く支えてくれるようなものにはなり得ないのではないでしょうか。

 

私にとって、この先何度も読み返すことになるであろう本のうちの一冊が、執行草舟氏の「生くる」なんですけど

 

 

 

 

ここ数日も読み直していて「ああそうだった、これだよなぁ・・・」という言葉と再会しました。

 

 

食わなければ健康 

 

食えなければ餓死

 

 

 

自分の中にはある程度入っている思想だという自負はあるのですが、あらためて書の中で出会うと新鮮な感動がありますね。薄れかけていた哲学がまたガツンと脳内・体内にぶち込まれた感があります。

 

 

 

 

まず、「食わなければ健康」 私も一日二食を実践していて、特に授業時間帯はなるべく空腹状態にして頭が働くように仕向けているのですが、そのおかげか健康状態は良好。

 

これは、自分の意思で主体的に「食べない」と決めているので能動的、主体的なものです。

 

 

 

一方、「食えなければ餓死」 これは「本当はお腹がすいていて食べたいのだけれど、食べるものを手に入れることが出来ない」という状態。自分の意思とは正反対のことを強いられているので受動的、受け身です。

 

 

どちらも、食べ物が体内に存在しないという現象そのものは同じです。しかし、その根底にある思想は全くの真逆なものですよね?

 

 

著者の執行氏は、この言葉に出会った時に「白刃が脳を貫いたような烈しい感動に襲われ」(原文そのまま)

 

以降、自分は「食わない」人間になろうと決意したそうです。つまり、すべて自分の意思で選んでいると考えるのだ、と。

 

そして、進んで行動する。決して自分以外の何者からかに強制され、被害者意識を抱えて何かをさせられることはしない、と。

 

 

たった一文字の違いです。「食わない」と「食えない」  でも、その差はあまりに大きい。

 

 

 

 

そして、このことは日々の生活のありとあらゆる場面に応用することが出来ます。もちろん、子どもたちの勉強についてもそのまま当てはめることが出来ますよね。

 

塾に通っている子たちの大半は勉強を「させられている」わけです。もしも受験なんてものがなければ、彼らは塾で勉強しようなんて思わないわけですから。

 

ほぼ全員が同じ「させられている」状況下にあるにもかかわらず、私から見るとハッキリ違いが見えるのです。

 

 

 

被害者意識のままでさせられている子たちと

 

させられていること自体は同じでも「どうせ逃げられないなら前向きにやる、自ら進んでやる、出来るようになって見せる!」と勝手に前提を変えて取り組んでいる子たち。

 

 

 

 

成果の差は、意外とそんなところにあるんじゃないかと私は考えています。望む結果を出せる子たちというのは、自分の中で前提・考え方を変えていける子たちなのです。

 

「自分は食えない(=遊べない、勉強させられてる)のではなく、食わない(=遊ばない、自ら勉強することを選んでいる)のだ」と。

 

 

 

 

私も常に「食わない」の側を選択するように生きています。でも、ちょっとしたことで被害者意識に引っ張られる危険性を自分の中にも感じています。

 

だからこそ、常に自分を「食わない」側に戻してくれる書物たちというのが、生きていく上で実に大きな存在となっているのです。

 

 

Twitter 木村弘一@スパーク

 

 

 

 

 

 

 

今日の一曲。

 

 

夏休みは終わりましたが、暑い日々も夏期講習もあと少し続きます。

 

大好きなジーザス&メリーチェインのギターノイズでガツンと気合いを注入します。

 

白刃が脳を貫くように(笑)。